2016年7月31日日曜日

りんごの木

今朝は母の朝食を済ませて、先週と同じコースを軽く自転車で走ってきました。
朝倉から玉川の鈍川木地を通る道です。
林道と渓谷を楽しみながら、3時間ほど汗をかいてきました。

帰りに果樹を植えている、空き地に寄りました。
数年前に、りんごの木やみかんや、柑橘を植えています。


納屋の戸を開けてみると蜂の巣です。
ここまで大きい巣になると、蜂と仲良くするのもなかなか難しいって感じです(汗)



りんごの木はまだ小さいのですが、摘果をして数個だけ実を残しています。
もう少しで収穫できそうです。
もう一本のりんごの木は、数日前に見た時には、もっと赤くて大きい実が何個かあったのですが、今日は一個も見当たりません。
普通鳥やカラスがつついた時には、食べ残しが下に落ちていますが、木の下にはそれらしい物が全くありません。
これは明らかに、人間の仕業でしょう。


3日前に収穫したりんごです。
今治市街地のような温暖な所でも、りんごの実は育つものなんですね。

(先生さん)
 
 

2016年7月24日日曜日

鈍川渓谷

母の朝食を済ませて、少し時間ができたので、運動を兼ねて山の方を徘徊してくることにしました。


マリーゴールドと、水田のグリーンとのコントラストが、とても綺麗でした。
向こうに見えるのは、建設中の今治小松自動車道です。

朝倉から、さやの峠を越えてしばらく進むと、左手に玉川の神子之森のバス停があります。
農作業をしているご夫婦に聞いたのですが、そのバス停の横の急な坂道を上っていくと、鈍川木地に行けるとのことでした。
鈍川木地は鈍川温泉の奥ですから、その道を行くと温泉に出られます。


ほどよく上って行くと、千疋の桜への案内がありました。
春にはそちらの方へ、行ってみたいと思います。



今上って来た道は、『林道 柱ヶ谷1号線』のようです。


またしばらく上って行くと、『林道 ヨコグラ線』に突き当たります。


ヨコグラ線を鈍川方面に進んで行くと、ヨコグラ橋に出ました。



橋の上から見た、木地川の様子です。水の色がとても綺麗でした。

 
橋のたもとに、神子之森への道標がありました。
 

鈍川温泉まで6,6kmです。


 
鈍川渓谷の渓流の音を聞きながら下っていくと、右手に駐車場があり数名のグループが川に降りて、キャンプをしていました。
そういえば夏休みに入ったのですね。

渓谷に別れを告げて帰路につきます。
下界に降りてくると暑いです。

 
途中、無人の売り場でシキビときゅうりを買って帰りました。安い~(^^)
 
癒しと良い運動になりました。
 
(先生さん)


2016年7月23日土曜日

祖父の手紙(その2)

私が東京の女子短大に勤めている頃に、送られてきた祖父からの手紙です。
この封筒には、祖母(かよ)からの手紙も入っていました。



20日の大寒より、大変気温が降下したが、その後二人共達者に努力している事と思います。
さて、お土産の湯のみ茶碗、24日に確かに受け取ったから安心するよう。
あれで茶を飲んで、一日も長く生き抜くつもりである。ありがとう。
次に、今後寒気の増加の折りから、いっそう体を大切に。怪我をせぬように。感謝・忍耐・努力を忘れぬように。これまた長生きするなら、タバコを止める事。
その後、祖父母、両親、皆達者ゆえ、安心するよう。
次に一治も、最後まで頑張るよう。
5千円同封してあるゆえ、二人でカレーライスでも腹いっぱい食べて、元気をつけるよう。
一枚でもたくさん着て、風邪をひかぬよう。
先ずはこれにて。
祖父より
一治君、利明君へ 2月26日7時 気温5度

昭和49年の手紙です。
この年の2月に、友人と二人で福島の猪苗代湖(磐梯山)へ、スキーに行きました。
生まれて初めてのスキーでした。
この手紙は、その時に買った湯のみ茶碗と、和紙でできた無地の日記帳を、祖父母に送ってあげた事への礼状です。
両親には、民芸品を送ってあげたと思います。
文面に、『有難う』ってあります。
おじいさんに、ありがとうと言ってもらえるなんて、思いもよりませんでした。
そのくらい遠い存在でした。

私は二人兄弟の次男ですが、長男である兄は幼少のころから祖父に可愛がられ、いつも祖父の膝の上に抱かれていました。
私はたった一度だけ、祖父の膝に乗せてもらったことがあります。

(先生さん)

2016年7月21日木曜日

祖父の手紙(その1)

古い手紙の中に、祖父から貰ったっものが、何通もあります。
私が高校生の頃から、事あるごとに書いてくれていました。

この手紙は、私が高校を卒業し家を出てから、初めて送ってきてくれたものです。
大阪で住み込みで働きながら、夜間のデザイン学校に通い始めた頃です。
高校を卒業した2日後に、住むあて働くあてもなくバッグを片手に、夜の関西汽船に乗って家を出ました。
港では大勢の友達が、紙テープやトイレットペーパーで見送ってくれました。
祖父はどんなにか心配だったことと思います。
誰かに襲われた時のためにと、指の関節技を教えてくれたことが忘れられません。



いよいよ初夏の季節、我が家を離れて早や70日余り、その後達者に毎日天職を全うしていることと、察しております。
社会は甘いものではない、山あり谷あり、人の一生は重荷を背負いて遠き道を行くがごとし、怒りは身を滅ぼす元なりを常に忘れぬよう、ボート精神を発揮し、苦しき時には我慢をして、最後の五分間まで頑張り抜くよう。
命は大切に、細心の注意を払い、怪我と病気をせぬよう。
男は一度思いついた仕事は、最後まで貫くこと。
夏休みには一治と一緒に帰宅して、故郷の空気と香りを味わうよう。
次に両親及び祖父母も、頑張っているゆえ、安心するよう。
さて日増しに暑くなるゆえ、充分体に気をつけて、夜寝る前には冷たい物は食さぬよう。
先ずはこれにて。
祖父77歳
5月21日15時 室温23度
利明君へ

私は高校時代漕艇部でした。
インターハイにも出場しましたが、勉強もせずボートを漕ぐことだけに明け暮れた3年間でした。
ある日体育の授業でラグビーをしていて、先生にタックルをされて、右肘が曲がらなくなり祖父に治してもらったことがあります。
ボートが漕げなくて困っていたのですが、2日ほどで治してもらいました。
このことがやがて、私が接骨院を継ごうと、決心したきっかけになりました。
文中の一治とは、兄のことです。兄はそのころ東京で大学生でした。

この郵便の消印を見ると、昭和47年5月22日となっています。
封書が20円の時代です。
祖父の手紙はいつも半紙に毛筆でした。
家庭では恐いくらいの祖父でしたが、今になって思うと家族思いの、人一倍思いやりのある優しいかけがえのない人でした。

手紙は今でも大切にしまっています。

(先生さん)

2016年7月18日月曜日

猿との遭遇

今日は母がショートステイから帰ってくるので、朝のうちに自転車で走ってくることにしました。

頓田川沿いのサイクリングロードから、国分公園の桜のトンネルにかけて蝉時雨です。
本格的な夏がやってきました。


 夏とは言え、朝倉ではちらほらと、コスモスの花が見られます。


久しぶりの朝倉ダムです。
今回は朝倉ダムから来た道を引き返して、白地から七曲桜を登り、玉川の神子之森から朝倉の古谷に抜けるコースを選びました。

神子之森から奈良之木へ向かう上り坂を走行していると、楳図 かずおの漫画のような『ギャーッ』という声が聞こえてきました。
不気味~っ、また聞こえてきます。
事件かなって思いながら、走っていると道のあちこちに、うんちが落ちています。
イノシシが落として行ったのかなと見ていると、突然目の前に猿の集団です。
こちらの姿を見つけると、用心深く振り返りながら森の中へ入って行きます。
カメラを構えた時には、遠くまで行ってしまいました。
あの不気味な叫び声は、猿の声だったようです。

そのあとも、道を歩いている猿の集団を、数回見かけました。


振り返ってこちらの様子を見ている、猿の姿が遠くに見えます。

畑で作業をしているおじさんと話をしたのですが、3~4日おきに定期的に猿が周ってきて、きゅうりやかぼちゃを持って行くから収穫ができないと言っていました。
困ったものですね。
でも何故か、茄子びは食べないのだそうです。


古谷に抜ける峠からは、今治国際ホテルやしまなみ海道が見えます。
ここからだと、おんまく祭りの花火も良く見えそうです。
でも夜は不気味ですね。。。

3時間足らず、山のアップダウンを楽しんできました。
今日から3週間ほどは、母の介護で自転車もお預けです。

(先生さん)

2016年7月11日月曜日

祖父の気持ち(その2)

祖父のキャビネットの中には、もう一枚張り紙があります。
それは『仏祭りを良くすれば、地下より永遠に子孫を守ってやる 接骨老人』とあります。
これも同じ時期に書かれたものでしょうか。
これを最初に見た時、他のどの張り紙よりも強い衝撃を受けたことを、今でも忘れられません。
その衝撃を受けた理由は次のとおりです。

祖母が亡くなってから祖父は、お墓のお供えをかかさず、ずっとひとりで行っていたようです。
私が帰ってきてからは、定期的にシキビを買ってくるように申し付けられ、『墓の花を枯らさんようにせないかん』と、よく言っていました。
そして、私の母のことについて、『広い土地に畑も作っていて花も育てているはずなのに、墓には一本のお供えもしない』と、よく愚痴をこぼしていました。
祖父は自分が亡くなってからの仏祭りのことが、気がかりで仕方なかったのでしょう。
それで残された遺族に、その気持ちを託そうとしたのだと思います。
いわば遺言です。
私はずっとひとりで、その遺言を守ってきました。

母は祖父からすれば、決して良い嫁ではなかったようです。
実際祖父が亡くなってからも、母や父がお墓にお供えをするところを見たことがありません。
何度も両親に祖父の気持ちを伝えましたが、お墓に出向く様子は見られませんでした。
私の父が亡くなってからも、母が仏壇に手を合わせる姿を見たことがありません。
私が毎朝仏さんに、ご飯やお光りをあげています。

それから母は、寝たきりになった私の祖母の、世話をしなかったようです。
下の世話まで、全て父がしていたそうです。
そんな母を、今度は私がひとりで介護をしています。

妻も母と同じです。
私の父が亡くなってからも、お墓や仏壇に手を合わせることが、全くありません。
冷蔵庫にはいつまで経っても消費しない食べ物で溢れ、押し入れには未開封のままの衣類や日用品がいっぱいで、大抵それらのことが口論になる原因でした。
妻は30年近くの間、共に仕事をしながらも、院内の庭掃除をすることは、一度もありませんでした。
そして妻は、母の介護を拒否しました。

残念ながら、祖父の先祖や子孫を思う気持ちを、私には伝えていく相手がいないのです。
祖父もきっとそうだったに違いありません。

(先生さん)

2016年7月10日日曜日

伯方島一周(開山・沖浦ビーチ経由)サイクリング

今朝は小雨の中、5時半に出発。
伯方島一周が目標です。
市民大清掃は前日に済ませておきました。

曇り空のため、湿度は高いけど涼しくて楽です。
雷注意報が出ているので、雷には気をつけての走行です。
大島はいつもの、椋名から田浦のコースです。
海面にはもやがかかっていて、とても幻想的です。
早朝はとても気持ちがいいです、あっという間に伯方島に到着しました。

大島伯方大橋を降りると、時計回りに外周を走ります。
狭い坂道をどんどん登って行くと、開山の駐車場に着きました。
そこから展望台に徒歩で上がると、360度のパノラマ風景が広がります。
 多々羅大橋
 もやがかかった景色もおつなものです。
展望台のコンパスです。

開山を下って県道50号に出ると、そこからは北浦・木浦と快適な道路です。

木浦港です。

木浦からは山越えをして、沖浦ビーチに降ります。
沖浦ビーチを過ぎた辺りで、綺麗な花が咲いていました。

ホテイアオイの花のようです。

出発してから帰りの大島伯方大橋の上まで、サイクリストらしい人に一度も会いませんでした。
朝が早かったからでしょうか。
橋の上で会った若者二人、横に並んでの並列走行で、すれ違う時にぶつかりそうになりました。
ピシッと決めた服装でも、かっこ悪いねぇお兄ちゃん達。

帰り道の泊の坂道で、出会ったご高齢のおじさん二人、荷物を両脇にいっぱい積んで、長距離ツーリングでしょうか。
30kg以上の荷物だと思います。
まともに登れないから、ジグザグ走行です。
私も若い頃に、テントと荷物を積んで、新潟から青森・東京まで東北をぐるっと周ったことがあります。
荷物を積んで走ると、とても重いのです。
ですからこういう人に出会うと、迷わずピースサインを送ります。
笑顔が返ってきました。
かっこいいよおじさん達。
気をつけて頑張ってね。

元気をもらったサイクリングでした。
潮風を胸いっぱいに吸い込んで、癒されたサイクリングでもありました。
休憩なしで5時間ほどのコースです。

古い細胞さん、今日もありがとう。

(先生さん)

2016年7月5日火曜日

祖父の気持ち(その1)

私が仕事で使っている物の中に、先代の祖父が長年愛用していた、キャビネットがあります。
前面に扉が左右二つあり、片方が曇りガラスになっていて、下には引き出しもあります。
経年使用のため、無垢板もそれなりに味が出ています。
 
主に書類や衛生材料を入れて使っていたようですが、祖父が亡くなってからその扉を開けてみると、筆で書いた言葉が壁に貼り付けてありました。
その一つは『八十五歳まで頑張る 』
昭和37年の元日に書かれたものです。
祖父が68歳、私が8歳の時です。
祖父と私はちょうど60歳違うから、計算がしやすいです。
17年後の85歳までは、仕事を続けようと考えていたようです。

 
 もう一つは、『金婚式』『昭和41年10月が金婚式』
祖父が72歳の時が金婚式だったようです。
ということは、22歳で結婚したことになります。
祖母は1歳年上で、84歳で亡くなりました。

これらの文字から、祖父の仕事と家庭に対する気持ちが、よく伝わってきます。


こうして過去を振り返ってみると、私が祖父のあとを継ごうと決心した時、祖父はちょうど85歳だったようです。
奇しくも祖父が仕事を辞めようとした年と、私が資格を取るために学校に行き始めた年が、偶然重なったのです。
その時から祖父は、私が資格を取って帰って来るまで、仕事を辞めないで老骨に鞭打って接骨院を続けていてくれました。
そして私が帰ってからさらに一年半の間、私に仕事を教えてその半年後に亡くなりました。
満89歳でした。

祖父がモットーとしていた言葉に、『感謝・忍耐・努力』があります。
私が学校に通い始めた年に書かれたものです。
長男が生まれた年月とも重なります。


祖父が亡くなり、35年近くが経った今でも、『昔先代の先生に診てもらったから』と来院する患者さんが後を絶ちません。

感謝です。

これらは皆、大切な祖父の形見の一つです。

(先生さん)

2016年7月3日日曜日

大三島一周サイクリング

数日前から体調が優れなかったけど、昨日から母がショートで入所してくれたので、6時頃にすき家で朝食を済ませて、その足でしまなみに向かいました。
早朝にもかかわらず、空気が生暖かくて爽やかなコンディションとは言えません。
大島はいつものように、椋名から泊、田浦にかけての外周コースを選びます。
泊から田浦にかけて、きつい山坂がありますが、これを登った時の感触で、それから先のことを考えようと思っていました。
何とかイケそうなので、大三島を目指すことにしました。
大三島橋を降りると、時計回りに島の外周を走ります。
たいていの人は、反対方向の上浦の方に向かって行きます。
サイクリングは競争ではないので、自分のペースで無理なく走るのが、長距離を走るコツです。
ちょうど百名山の山岳ガイドの人のように、コンスタントに景色や土地々の歳時記を眺めながら走るのです。 

盛港です。カーフェリーも出ていて、対岸の広島県に行くには便利なようです。

今日はひとつ意外なことがありました。
平坦地を走行していると、バシッと決めた若者の集団10人ほどが追い越して行くので、進路を譲りましたが、何のリアクションもありません。
橋の上でも二列になって走ったり、マナーの悪い若い人が目立ちます。
ところが山に差し掛かり上り坂を走行していると、先ほどの集団が四苦八苦しているようです。
こちらは普通に走っているのに、難なく追い越してしまいました。
普段から山道を走っているおかげでしょうか、この時は『えっ、俺ってまだまだやれるじゃん』って自分ながらに驚いてしまいました。
その後彼らは追いついてはきませんでした。

撮影以外休憩なしで帰ってきました。
さすがに最後はバテて、手の指先が痺れてきてやばかったです。
昼過ぎに帰ってきましたが、環境省から暑さ指数31.7危険、運動は原則禁止の発表が出されていました。
右脚の太ももが引きつったのは初めてです。
熱中症か脳梗塞の一歩手前だったかもしれません。
指先に後遺症が残るかもしれません。
生年月日と氏名と今日の日付は言えたので、何とか仕事と生活はやっていけそうです(笑)
無茶は今回限りにしようと思います。

でも古い細胞だけでよく頑張りました。

(先生さん)