2016年8月31日水曜日

栗拾い

今日は台風一過の、爽やかな青空が広がりました。

母はショートステイなので、夕方から友人の所有する山へ、栗拾いに出かけました。

 
 
30分ほどの間に沢山拾いました(^^)
 
この山は、玉川の和霊神社の、鳥居の奥にあります。
 


 
季節はまもなく秋です。
 
(先生さん)
 


2016年8月20日土曜日

B & O

長男夫婦が初孫を連れて帰省してきました。
4月の父の三回忌以来の帰省です。

孫もお座りができるようになっていました。


子供の成長は早いものです。

ちなみに血液型ですが、私と長男夫婦と孫はB型。
妻と長女次女次男はО型。
これで四人ずつ、五分と五分になりました。

よっしゃ~

平成28年8月19日

(先生さん)

2016年8月15日月曜日

祖母からの手紙

祖母から一度だけもらった手紙があります。

祖父の手紙(その2)でも記載しましたが、福島に初めてスキーに行った時に、祖父母にお土産を送ったことがあります。
夫婦の湯飲み茶碗だったと思います。
その時の礼状には、祖母の手紙も入っていました。
 
利ちゃんお元気ですか
先日はおじいさんやおばあさんにまでに良いお品を送りてくれまして ほんとうに嬉しく思ひました
早速御礼状を出さねばなりませんのに 大変おそくなりましてすみませんでした
おじいさんも此の五六日わ かんじゃが大変お多くて そのうえ家の用事がたくさんあって書くひまがないと心配して 利ちゃんにおそくなったしだいで おばあさんわ寒さによわいので寝てばかり居って おそなったがごめんね
利ちゃんお正月前にかえりた時 小松へつれて行きてくれた事を思えば嬉しかった
又春休みに帰りてどこかえ連れて行きてね たのしんで居るからね
一治にいさんにもよろしくね
寒さがきびしいから 二人共風をひかないようにしてね
さよなら 利ちゃん おばさんより
(原文のまま)

小さい頃祖母に連れられて、よくお参りに行きました。
朝倉古谷の知恵の文殊尊、それから宮が崎の筋神さんや朝倉の金比羅さん、そして小松の子安さん(香園寺)や奥の院などです。

高校生の頃、祖母を連れて行ってあげたことがあります。
その時に、筋神さんから金比羅さんに抜ける林道で道に迷ってしまい、祖母の手を引きながら山の斜面を登ったり降りたりしながら、ようやくたどり着いたことを覚えています。

この手紙の時には、小松の香園寺と奥の院に、連れて行ってあげたのだと思います。

この手紙は、裸電球の下で書いたのでしょうか。
最初で最後にもらった、たった一通の手紙です。
祖母はとても優しい人で、小さい頃からよくしてもらいました。

祖母はそれから数年後に倒れ、しばらくの間寝込んだ後、私の誕生日に亡くなりました。

私が今も山や寺社によく行くのは、祖母が生前に歩いた道を辿っているのかも知れません。

平成28年8月15日

(先生さん)

2016年8月14日日曜日

横峰寺へんろ道

今朝は、母がショートステイなので、早朝から自転車で出かけました。
目的地は60番札所の横峰寺です。


小松の国道11号線の大頭交差点を、山の方に入って湯浪の休憩所に向かいます。


途中、妙雲寺の常夜灯でしょうか、すごく大きいですね。


こんな渓流に沿って自転車を走らせます。


湯浪の休憩所に到着です。
ここからは徒歩で登って行きます。
山門まで片道2.2kmの案内があります。


入り口の横にある水場です。
とても冷たくて美味しいです。
車で水をくみに来る人も沢山います。

ここでは小学生でしょうか、自転車でお四国参りをしている、親娘に会いました。
いいですね!
焼き鳥山鳥の、レーシングチームの人にも出会い、会話がはずみました。
その人もソロで走るのが好きなようです。




こんな感じの所を登って行きます。
石鉄山といわれるように、岩がごろごろしています。


横峰寺の山門が見えてきました。


山門です。



 本堂。

大師堂。



近頃は色鮮やかな金属の看板の案内を見かけますが、このように木や石のほうが落ち着きますね。

ここへは子供が小さい頃に、背負子に背負ってよく来ました。

お四国参りは4回目の途中ですけど、出発はこのお寺からでした。
ここのオレンジ色の納経張はお気に入りです。

昔から様々な人が、それぞれの思いをはせながら、この道を歩いてきたことでしょう。
そして自分もその長い時間の、ほんの数十年間を生きているに過ぎないからこそ、これからも健康でいられることに感謝しながら、精一杯生きていかなければと、そんな事を考えながら帰路につきました。

(先生さん)

2016年8月10日水曜日

祖父の手紙(その3)

祖父から届いた手紙には、他にこんなものもあります。

玉磨かざれば光なし
人学ばざれば智なし
努力は成功の基なり
校規をよく守ってよく勉強すること
長上の命に従い反抗心は禁物なり
怒りは身を滅ぼす基なり
忍耐力を養うこと

祖父74歳

利明君

私が中学高校の頃には、学生運動が盛んで、その当時極貧生活を送っていた親友の一人は、政治意識に目覚め、私にその熱い思いをよく話してくれたものでした。
私はといえば、思想や政治よりも自由に憧れ、権力で縛り付ける親や学校に反抗したものです。
しかしながら、その彼のあまりにも貧しい生活環境を目の当たりにし、その環境の中から生まれた彼の考え方が、恵まれた環境に育った私にとってのトラウマとなり、将来家を飛び出し、ドロップアウトをしていくことになったのです。
高校を卒業して、すぐに家を出て大阪に向かった時には、釜が崎に入ろうと考えていました。
でもその思いはすぐには果たせず、それから7年後安定した職場を辞めて、横浜の寿町に入ることによって思いを遂げることができました。

その親友とは数年前に再会しました。
その時に彼が、胸の内を打ち明けてくれたことがあります。
それは私が高校を卒業した時に、何のあてもなく家を出て行くことに強く反対したのですが、その反対したことが彼のトラウマとなって、それからの人生において、そのことをずっと引きずっていたそうです。
彼もその後、しばらくして故郷を離れました。

彼は現在千葉県で、議員さんになっています。

このような私の考えや行為を、その当時祖父は察していたらしく、このような内容の手紙を度々手渡してくれていたのです。

 
金一万円同封してあるゆえ、有効に使うよう
正直は一生の宝、間違った心は絶対禁物なり
 
嘘をつく人とは、必然的に心が通わなくなるものです。
 
(先生さん)
 


2016年8月8日月曜日

天皇陛下のお言葉(ビデオメッセージ)

戦後七十年という大きな節目を過ぎ、二年後には、平成三十年を迎えます。

私も八十を越え、体力の面などから様々な制約を覚えることもあり、ここ数年、天皇としての自らの歩みを振り返るとともに、この先の自分の在り方や務めにつき、思いを致すようになりました。

本日は、社会の高齢化が進む中、天皇もまた高齢となった場合、どのような在り方が望ましいか、天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えて来たことを話したいと思います。

即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。

そのような中、何年か前のことになりますが、二度の外科手術を受け、加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から、これから先、従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合、どのように身を処していくことが、国にとり、国民にとり、また、私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき、考えるようになりました。既に八十を越え、幸いに健康であるとは申せ、次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています。

私が天皇の位についてから、ほぼ二十八年、この間(かん)私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行(おこな)って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井(しせい)の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。

天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。

天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ二ヶ月にわたって続き、その後喪儀(そうぎ)に関連する行事が、一年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります。

始めにも述べましたように、憲法の下(もと)、天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で、このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。

国民の理解を得られることを、切に願っています。


熊本地震の被災地への、日帰りご訪問のご様子。
かなりの強行日程だったと思われます。

(先生さん)